創成期


マルクス主義学生同盟は、60年安保闘争の爆発の中で結成されました。

60年安保闘争時は共産主義者同盟に比べればごくごく少数派ではありましたが、安保闘争の総括をめぐる中で労働者党の必要性を認識した多くの仲間が共産主義者同盟から結集してきます。

1962年9月に開催された革命的共産主義者同盟第3回拡大全国委員総会(三全総)において、革共同は「戦闘的労働運動の防衛」や「地区党建設」を軸に、社会党・共産党に代わる闘う労働者党を建設する挑戦を開始します。それは、職場において資本や労組御用指導部と苦闘する労働者と徹底的に連帯し、個別資本との闘争を資本主義との闘争へと転化させ、また同時に機関紙・誌に当時色濃く残っていたインテリ的・セクト的言葉遣いを排して真に労働者の機関紙・誌を作り出そうとする先進的な取り組みでした。

これに対して革共同議長(当時)であった黒田寛一は、新たな労働者党の建設という困難な事業を前にして恐怖し、革命に向けて必要不可欠なこの大事業から逃亡・脱落します。そして、「革命的マルクス主義派」なる別の政党を立ち上げました。革共同から黒田一派が脱落するのに合わせて、マルクス主義学生同盟からも多くの学生が黒田の隠然とした組織化に屈服し、カクマルへと逃亡します。そして、残った学生は「マルクス主義学生同盟中核派」を結成したのです。

 

激動の7ヶ月――70年安保・沖縄闘争


「マルクス主義学生同盟中核派」として再出発したMSLは、60年代中期に、日韓条約阻止や米原子力潜水艦寄港阻止を闘います。
また、キャンパスにおいては、星野文昭同志(現在は獄中闘争を不屈に闘い抜いている)を中心に高崎経済大学で大学当局の腐敗を弾劾します。早稲田大学においても、学費値上げ阻止闘争を闘いました。
さらに、他党派とも協力する形で、カクマルによって暴力的に支配された全学連を66年に再建します(「三派全学連」)。

 

10.8羽田闘争

こうした闘いの上に、1960年代後半には70年安保・沖縄闘争が大爆発します。
1967年10月8日、佐藤首相(当時)の南ベトナム訪問を阻止するために「10・8羽田闘争」を闘います。ベトナムでアメリカ帝国主義による侵略戦争と闘うベトナム人民と連帯し、労働者階級の国際連帯でベトナム戦争を止める第一歩を築いたのです。ベトナム人民はこの闘いに賛意と連帯を表明し、さらにアメリカの学生にも影響を与えて「ゼンガクレンに続け」と米国防総省への実力デモへと繋がりました。
この闘いの中で京大の山崎同志が機動隊によって虐殺されますが、闘う学生がはじめて「武装」し命がけで決起するという状況に、学生は革命の現実性を掴み取ります。
10月8日当日は「赤旗まつり」を開催して羽田闘争に敵対した日本共産党・民青は、「暴力学生の追放」を叫び国家権力と結託する腐敗をさらしますが、日本ー世界の労働者階級はMSLを先頭とする学生の決起を絶賛しました。

 

エンプラ闘争

1968年1月、米原子力空母エンタープライズが、ベトナムへ出撃する戦闘機・爆撃機を退寮に積載して、佐世保港に寄港しようとしました。MSLは、羽田闘争のときと同じく、ベトナム戦争を実力で阻止するべくエンタープライズ寄港阻止闘争を闘います。警察は、闘う学生を「火付け」「強盗集団」などとデマ宣伝に熱を上げ、佐世保の街を恐怖に叩き込みました。
しかし、学生が警察権力と激突しながら闘う中で、機動隊の殺人的暴力を目の当たりにした佐世保市民は、「警察こそ暴力団だ、学生は正義だ」と実感し、学生とともに決起します。学生のデモ隊は、市民の熱烈な声援と支援を受けました。そして、総評系・中立系・同盟系を問わず、労働組合のほとんどが佐世保現地の闘いに合流します。労働者階級と学生とが連帯し、闘いが合流するや、闘いはさらに発展します。そして、この闘いの結果、米原子力空母が日本に寄港することのできない状況を15年にもわたって作り出したのです。

 

 

 

新宿騒乱

1968年10月21日、MSLをはじめとする闘う学生は、東京においてベトナム戦争を実力で止める闘いへと決起します。米軍のジェット機用燃料は当時、まず横浜にタンカーで輸送され、それが立川と横田の米軍基地へと貨物列車で運ばれていました。つまり、危険なジェット燃料を満載した貨物列車が、毎日何十両と新宿駅構内(中央線)を通過していたのです。67年にはジェット燃料輸送の貨物列車同士の衝突事故が新宿駅構内で発生していました。

10.21闘争は、この米軍タンク車輸送実力阻止を掲げて闘われました。日帝国家権力は、新宿駅周辺での集会・デモを一切禁止します。そして日本共産党・民青は宮本顕治書記長(当時)の指導の下、MSLの拠点である法政大学を武装襲撃し、全関東から動員した日共・民青で制圧しました。

しかし、MSLをはじめとする闘う学生は、国家権力と日本共産党との二重の制圧を真っ向から粉砕し、新宿駅を占拠します。多くの労働者がこの闘いに合流し、機動隊を共に粉砕、新宿駅一帯を解放区としました。

 

日大・東大闘争

東大闘争は医学部の経済闘争からはじまりましたが、ストライキが全学に拡大する過程で、帝国主義を支える東大という、大学そのものを根底から問い直し覆す闘いへと発展していきます。

MSLは闘う東大生と共に、東大を安保粉砕・日帝打倒の砦にするために全力で闘いました。許せないことに、日本共産党は全共闘に対して「暴力学生」などと悪罵を飛ばしながら、武装した特別部隊で全共闘を襲撃します。しかし、MSLはすでに法大で日本共産党の暴力支配と闘っており、この経験により全共闘は日本共産党と闘うことができました。

 

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